ラブライブ!らしさとは

 先々週ラブライブ!サンシャイン!!が最終回を迎えましたが、思うところが多々あり、Twitterとは違う形でその感想を述べたいと思い、投稿しました。

 トピック別にラブライブ!ラブライブ!サンシャイン!!の違いについて述べています。長いので、「ライブについて」だけでも読んで頂ければそれだけでも有難いです。ですが、アニメサンシャインに対して批判的な意見ばかりを書き連ねているので、アニメサンシャインが楽しめた方には不快な内容である恐れがあります。また、当然ですが単なる個人的な感想なので、この見方が正しいなどと主張するつもりはありません。

 本稿で劇中の大会としての意味以外でラブライブ!という言葉を使うときには、所謂無印と呼ばれるμ’s時代のラブライブ!という意味に限定して使い、サンシャインはそこには含めないという形で述べていきたいと思います。

 

・ライブについて

 先々週の最終話に際して「なんかぶっ飛んでいたけどラブライブ!らしかった」という感想を見かけたのですが、私はそこでとても疑問を持ちました。ラブライブ!らしさとは何なのか?適当に歌って踊って、力押しをすればラブライブ!なのか?と。そこの違和感があればこそ、わざわざはてなブログに投稿するに思い至ったようなものです。

 個人的な結論としては、ラブライブ!らしさとは、ライブにクライマックスを持ってくる為に物語の全てが存在するつくりであるし、最終的に言いたい事を全てライブで表現するのがラブライブ!らしさだと思います。一期1話のススメ→トゥモロウから始まり、START:DASH!!Snow halationKiRa-KiRa Sensation!SUNNY DAY SONGなどを経て、最後の僕たちはひとつの光に終わる。その全てが伝えたい、届けたい想いをライブで表現する、ライブそのものが物語である、そんな作品だったと思います。

 だからこそ、ストーリーも、演出も、アニメに関わる全ての要素がライブというクライマックスを盛り上げるための材料であるし、ライブを面白くする為だったらなんだってする、ライブの良さで見ている者を圧倒して有無を言わせない、そんな勢いの良さがラブライブ!の魅力であったように思います。

 全ての要素がライブを盛り上げるという一点にあるからこそ、ライブを楽しんでもらいたいという明確な意志が作り手からも伝わり、ライブを大事にしたアニメの世界とシンクロさせた三次元の世界におけるライブも盛り上がる。アニメを作るスタッフ、キャストたるμ’sのメンバー、そして何より劇中のμ’s達自身が、最高に楽しいライブを見ている人に届けたいという一点で同じ方向を向いていたからこそ、二次元と三次元が融合した凄まじいコンテンツになったのだと私は思います。

 その前提を踏まえた上でサンシャインの事を考えた時に、一期を締めくくる大事な最終話の五分、OPEDも含めた約24分の話のおおよそ1/5の尺を割いてまで、視聴者が既に知っている1~12話のあらすじが内容である寸劇を、ライブ前という一番のクライマックスの直前に入れるのは果たしてラブライブ!らしさなのでしょうか?

私にはそうは思えませんでした。

 ライブ会場という、視聴者にいよいよライブが始まる!という期待が溢れる光景の中でいきなり始まった寸劇、しかも内容は既に今まで見てきた総集編のようなあらすじ、別にミュージカルという訳でもなく、話す内容に大げさな抑揚と身振り手振りがついてる程度、更にやたらと長いときています。これを見せられた後でライブは盛り上がるのか、この一連の寸劇にライブを劇的に盛り上げる効果があったのか?この寸劇を五分間面白いと感じ続けて見れた人にとっては効果はあったかもしれません。ですがそう感じずに、退屈だなぁとか、早くライブ始まらないかなぁと思ってしまった人にとっては、一番盛り上がるはずのライブというクライマックスに向けて気持ちを高めたかったのに、水を差されて白けさせられてしまった、そんな演出だったのではないでしょうか?

これはライブを重要視するラブライブ!において致命的なミスだったのではないかと思います。

そして、そもそもサンシャインにおいては、3話のライブの中断というケースがあるように、作り手にライブを犠牲にしてでもストーリーなどを描きたいというような意志があったかのように感じます。そこが私がサンシャインに対してラブライブ!らしさを感じなかった根本の原因だと思いました。

また、3話のライブ中断後に現れた千歌の姉による時間間違いの指摘と即座に再び始まるライブ、13話の梨子のステージに近づいたら退場という説明を踏まえた上でのライブ中の浦女生徒のステージへの接近など、見ている側の頭に?を浮かばせる出来事がライブ前やその最中にあったりして、ライブに集中できないというのも演出として上手くなかったように感じました。勿論初見時にそこに全く疑問を持たなかった人に関しては当てはまらないかと思いますが。ライブを見る前や見ている時にライブ以外の事に気を逸らさせるようなつくりでなければ、ライブ自体の評価はやはりとても良いものだと思うので、残念だなと思った次第です。

 

・部活物として

 ここからはμ’sがライブで伝えたその物語に関する要素の比較をしたいと思います。

 ラブライブ!は学校でアイドルをするスクールアイドルを描いた物語であり、そこには当然、学校で生きる生徒の部活動としての側面と、ファンの前でステージに立つアイドルの二つの側面があったかと思います。

 前者の部活動要素としては一期前半の部としての体裁を整えようと部員や部室を獲得していく過程や赤点をとったら大会に出られないという一期七話の勉強回、作品全体を通して描かれたラブライブ!という大会関係の描写がそれに当たると思います。特にラブライブ!に関しては、そこでの優勝を目指すというのが二期全体の大きな目標であり、大会で優勝を狙うという部活物ではかなり王道な要素が含まれていたと思います。また、後者としては一期のアイドルとしての心構えを語る矢澤にこや一期三話での「今、私たちが、ここにいる、この思いを」届けたいという穂乃果の決意、二期を通して描かれた応援してくれるファンがいたからこそ私たちμ’sは「みんなで叶える物語」なんだという気づき、劇場版を通して描かれたファンの寂しいという気持ちと最後までμ’sで有り続けたいという気持ちの間で揺れる葛藤などで描かれていたと思います。

 これらを踏まえた上でサンシャインを考えた時に、サンシャインはスクールアイドルを描いてるにしては、どちらの要素も薄かったなと感じました。この二つの要素について、5話と12話で語られたμ’s評が参考になると思います。

 まず、部活動という面に大きく関わる大会について言えば、12話でμ’sは勝ち負けではなかったと述べられていますが、穂乃果達は明確にラブライブ!という大会に関しては勝ちに拘っていたと思います。そうでなければ、一期11話の穂乃果の無茶も、二期2話や6話のスランプも、8話のパフォーマンスの完成度を犠牲にして新曲を全員で作る事へののぞえり以外のメンバーの躊躇いなども存在しなかったと思います。勝ちに拘って、このメンバーで最高の結果を出したいと必死に悩んで考えて駆け抜けていったからこそ、見ているファン(劇中のファンもアニメを見ていたファンも)は、彼女達のその姿に胸を打たれ応援したのだと私は思います。劇場版ではスクールアイドルの素晴らしさを伝える為に大会ではライバルであったA-RISEとも一緒に勝ち負けのないライブを行った訳ですが、それも勝ち負けの存在するラブライブ!の否定という意味で描かれた訳ではないと思います。そもそも劇場版の趣旨としては、ラブライブ!もμ'sもスクールアイドルも全てが大事だという葛藤の果てにすべてを守りきったという話だと思いますし、スクールアイドルが全力で競い合い輝いていく場所であるラブライブ!を守りたかったのがμ'sの想いだったのではないでしょうか。

 スクールアイドルとして勝ち負けに拘らない事が即座にラブライブ!の否定ではないのかもしれません。ですが、ラブライブ!という大会には勝ち負けが存在しており、そこに出場してその場で争う以上、大会での結果に拘るのは当然ですし、千歌の8話での涙も結局は会場にいる人が誰も自分達に投票しなかった0という結果、その敗北が悔しい事に起因していると思います。それなのにサンシャインは12話で勝ち負けに拘る事を放棄し、自由に走ると宣言した果てに浦女生徒達がルール違反をして(恐らく)失格というとんでもない事をする訳です。演技に関するレギュレーション違反などならともかく、実際のライブなどでやられたら確実に危険な行為というモラルやマナーの面から言ってもアウトな行為を、しかも大会という他の参加者もいる場で、盛り上がったから仕方ないと開き直るようかのように描写するのは部活物として見た時にあまり誠実さを感じませんでした。厳密には千歌は煽っただけで具体的にステージへの接近という行為を行ったのは浦女の生徒達ですが、他の大会参加者は恐らくルールを守って自分達がしてきた目一杯の努力の結果を大会という場で行ってきたのに、主人公たる千歌達とそのファンがラブライブ!という大会でルールを破っても平然としているというのは、見ていて気持ちの良いものではありませんでした。Saint Snowにラブライブ!は遊びじゃない!と言われていましたが、本当にその通りだと思います。

 楽しければそれでいい、というのがμ’sの出した結論ではないはずです。劇場版で穂乃果がラブライブ!で優勝できたのは楽しかったからだ、と語っていました。でも実際の劇中では彼女たちは何度も迷って葛藤しての連続で、それでも楽しかったからと言い切れたのは、勝つ事も自分達らしく頑張る事も両立させながら、夢中で全力で駆け抜けたからだと思います。二期8話で結局パフォーマンスの完成度よりみんなで作る新曲を選んで大会に挑んだというのも、勝ち負けを捨てた訳ではなく、勝つことも希の望みをともだちとして叶える事も両方叶えたいという気持ちの果ての行為だったと思います。勝ち負けのあるもので勝敗に拘らないで楽しい訳が無いのはあらゆる競技やゲームなどに言えることだと思います。勝ちに拘りながら更にそれ以上の何かを追い求める事は美しいでしょう。ですが、サンシャインは勝ち負けに拘らず輝いていくという方向に舵を切った結果、大会で勝とうとする部活物の熱さをなくしてしまったように思います。そして、勝ち負けに拘らないのであればもっと別の何かを提示するべきだったのに、結局それが輝きたいという名の下でのルール違反だったのは残念です。

 

・アイドル物として

 アイドル物としてサンシャインを見た場合、見ている観客やファンへ何を届けたいのか、という部分が希薄に感じました。千歌が5話でμ’sはお客さんの反応を気にせず自分の好きを表現したと言っていますが、私にはこのμ's評も的外れに感じます。

 μ'sのアイドル意識としては、一期で矢澤先輩が言っていた「アイドルっていうのは笑顔を見せる仕事じゃない、笑顔にさせる仕事なの」や13話の講堂ライブでの「今日、みんなを一番の笑顔にするわよ」といった台詞が印象的だと思います。それから穂乃果の「今、私たちが、ここにいる、この思いを」届けたいという講堂での決意も実際に届ける対象である観客がいるからこそ成り立つものです。また2話での絵里の、スクールアイドルがなかったこの学校でやってみてダメでしたとなったらみんなどう思うかといった台詞、ライブやPV映像についているコメントから、スクールアイドルとして周りからの目線があるという意識が随所にあったと思います。そして、雪穂や亜里沙、ヒフミといった身近なファンの存在も適宜描かれていたと思います。

 二期になると、アイドルとして、見てくれるファンの存在を意識する事が更に増して行ったと思います。二期3話や9話などを通じて応援してくれるファンの存在の大きさが描かれ、果てには10話においてファンが応援せずにはいられないその姿がμ’sがA-RISEに勝利できた理由とも描かれています。また、それはラブライブ!で優勝できた説得力にも繋がっていると思います。そういった描写に際してμ’sも、μ's自身として優勝を目指すだけでなく、応援してくれる人の気持ちに応えたいという思いが強くなっていったというのが9話などから伝わってくると思います。

 劇場版においては、そういったファン応えたいという思いが今度は枷となり、新たな葛藤が生まれるという話でした。スクールアイドルとして最後までμ'sで有り続けたいという想いとファンの気持ちに応えたいという葛藤の果てに、あのみんなで作り上げたSUNNY DAY SONGがあったのだと思います。

 このようにラブライブ!において、アイドルとしてファンに応えたいという気持ちと頑張るアイドルを応援したい気持ちから生まれるμ’sとファンの交流は、時として現実のμ’sとファンにもダブったりもする、物語の重要な軸となっていたように思います。

 サンシャインに関しても見てもらえた人からのコメントやファンの描写はありました。ですが、Aqours達がライブを見てる人にどんな気持ちになって欲しいのか、スクールアイドルとしてどんな気持ちを客席に届けたいのか、という辺りはあまり見えてこなかったように思えます。5話のμ'sはお客さんの反応を気にしなかった、9話の三年生が怪我という事情があったとは言え身内の事情でステージに立ちながら故意に歌わない、11話のライブで客席ではなくステージを向いたパフォーマンス(恐らく梨子と思いは一つであるという表現なのは分かるのですが)などから彼女達の客席の軽視が見て取れるように感じました。

 また演出に関しては11話と13話での客席のサイリウム統一が個人的に引っかかりました。これが自分達だけのライブであるなら分かります。ですが、11話も13話もラブライブ!という大会の会場で、他の参加者目当ての観客、Aqoursを知らない観客がいることも当然考えられる場です。だからこそ13話で寸劇をやり、それが観客の気持ちとなってサイリウムの色となって現れたという見方も出来るかもしれません。ですが11話で既に観客のサイリウムは統一されている以上、別に寸劇などなくても出来たことなのではないかと思ったりもします。ラブライブ!サイリウムに関しては一期最終話のサイリウムが印象的だと思います。フミコやミカ、音ノ木の生徒達が思い思いにサイリウムを振る様は、講堂に満ちた色とりどりのサイリウムの一つ一つの全てにそういったファンの存在を感じさせ、その景色の趣を一層引き立てていると思います。アニメで描かれるサイリウムは単なる光る棒ではなく、そこにはそれを振っている人の存在がいるはずです。しかし観客の描写が足りないまま統一されたサイリウムを描かれても、単なる舞台装置の延長線上としてしかサイリウムを描いてないとしか捉えられません。13話に関しては浦女の生徒達などの反応は描かれましたが、それが会場の総意だと捉えるなら、あの広い会場の観客全員がステージに接近するという阿鼻叫喚な事態になりかねません。自分達と浦女を知らない人達へ向けてあの寸劇を行ったというのであれば、それを受けて会場の人はどう思ったのか、浦女生徒達とAqoursという内輪だけでなく、外側の人間にはそれがどう写ったのかという描写が個人的には欲しかったです。

このサイリウムの話については、会場全てのサイリウムに電子制御がなされていた、または観客には事前にこの学校のパフォーマンスではここで色を何色に変えるといった周知がなされていた、といった仮説をとるのであれば無視できることなのかもしれません。

彼女達が見ている人に何を伝えたかったのか、という点については、6話に関しては地元の良さを伝えたいという事は伝わってきました。しかしそれ以降に関しては、11話のライブ前も語っていた事は自分たちのことであるし、13話のライブ直前の観客へ対しての寸劇もほぼ自分達の事を語っていただけで、最終的に物語を通して彼女達から観客へ伝えたいものは何なのかと考えた時に、自分達は頑張っているという表明と輝きたいと願っている以上のことが私には感じ取れませんでした。結局彼女達の自分達の舞台を見る人はどんな気持ちになるだろうとか、どんな気持ちになってほしいといった所への思慮やそれを受けて観客がどう思ったのかといった所への描写が足りなかったのではないか、彼女達は観客の事を考えてないのではないかと感じました。

 見ている人がいなければステージは成立しないというのはラブライブ!で一貫して描かれていたことだと思います。また、その見ている人の描写は時として、アニメをみて、μ’sラブライブ!というコンテンツを応援している我々自身ともダブる事があったのがラブライブ!だと思います。

 サンシャインにおいては、Aqours達の客席への思慮、自分達が客席にこの想いを届けたいという切実な願いや情熱を感じませんでした。そして、劇中におけるファンの扱いが所謂厄介行為を行って憚らないモラルのない存在として描かれたのも非常に残念でした。

 

・サンシャインにおけるμ'sについて

 μ's評の話を前二項で行いましたが、サンシャインの主人公たる千歌には、μ'sのファンとして描かれながらも、どこかμ'sのファンとして共感できない点が多々あったように感じます。μ'sの名前を間違える、廃校を喜ぶ、的外れなμ'sの解釈をする、部屋のポスターを剥がすなどです。最後のポスターに関しては、μ's脱却の決意を表すものとして好意的に捉える方が多かったように思います。ですが、私としては背中を追うことをやめたとしてもファンである事をやめる必要はないし、ファンでありつつもスクールアイドルとして強い決意でその行為を行ったのであるなら、それは充分描く価値があるものであるし、寧ろ描いてもらわないと彼女のμ'sへの思いを浅く感じてしまうな、といった感想でした。そもそも上記の千歌のこれまでのμ'sにまつわる行為に、浅さを個人的に感じてしまったので、ポスター剥がしに関してはきちんと描かれないと特に感慨もなく適当に剥がしたのではないかと邪推してしまう余地が自分の中に生まれてしまいました。(実際はそうではないと思いますが)

 主人公として、メンバーや周りの人間、そして見ている我々すらも引っ張っていっていき、惹きつけていくタイプの穂乃果とは違い、千歌はμ'sのファンという出発点や普通である自分から脱却したいという悩みなどから、どちらかといえば見ている側に感情移入させて物語に引き込むタイプの主人公だったのではないかと思います。ですが、そのμ'sファンとしての描写に上記の理由から余り共感できなかったのが個人的に残念でした。

 サンシャインにおいては、いま挙げたような随所にあるμ's要素が毎週(特に前半は)巷で話題の種になっていた印象です。しかし、個人的には3話でのライブ後のμ'sの言葉の引用、4話でラブライブ!から五周年の世界だとほぼ確定になったのにμ'sどころかスクールアイドルも知らなかった元音ノ木生の梨子の存在や突然話に大きく関わってくる凛の描写、5話のμ’s語りなどは、違和感を感じたり、Aqoursの物語であるはずなのにそういったμ’sの描写に関して想いを馳せるばかりで本筋のAqours自身の物語に集中できず、個人的に見ていて疲労が溜まるものでした。

 また、特に12話に関しては、ようやく話にμ'sが絡まなくなったと思った矢先のμ’s脱却回であり、個人的には後半からは話の構成的にも独自の動きで話が動き始めたと思っていたのに、まだμ’sから脱却できていないという認識でこの話をやるのかと、少し驚きました。

 12話のμ’s描写に関しては、海や羽根の解釈や意味を巡って様々な議論がなされていたと思います。12話に関して自分が思う所は、先ほどのポスター、海、そしてμ'sはなにも残さなかったという描写の三点です。

 海に関して言えば、μ'sの終わりである場所でAqoursが始まった事に意味が有るという意見があります。しかし、私としてはそれはμ’sを知っている側のエゴなような気がしました。彼女達の決意が大事なものであればあるほど、その大事な決意を彼女達が思い浮かべる度に、そこには折角脱却しようと決めたμ’sが見た風景のレプリカが広がっていて、彼女達はそれがレプリカだと気づくことすらできないというのは残酷だと感じます。μ's達は彼女達だけの景色を持つことができたのに、なぜAqoursには彼女達しか見れない、彼女達だけの景色を用意してあげることが出来なかったのか。そう思います。

 μ'sは何も残さなかったに関しては、私はその事実どうこうよりも、Aqours達の物語を描くはずのサンシャインで、μ’sが実際に起こした行動の描写をされる事に不快感がありました。μ'sの物語は劇場版で最後のライブの描写がされていて、μ’sがそれ以降何をしたかは一切描かれていないながらも、μ’sの語り部として雪穂と亜里沙が存在している事で、彼女達の想いは後世にも伝わっていたという形で美しく描かれていたと思います。劇場版での、その綺麗で潔い終わりに対して、サンシャインが後からその物語に付け足しをするのは蛇足ですし、無粋だと感じました。μ’sの後の世界がどうなったか、という点について描くことは構わないと思います。ですがμ’sの物語を描いていない作品で、一つの幕を下ろしたμ’sの物語に対し、μ’sが起こした行動を後から描写して勝手に付け足した事に不満が残りました。

 サンシャインに関しては、そういった随所のμ’s描写への不満もさる事ながら、そもそもAqoursの物語を見たいはずなのにμ'sの話ばかりをしている点も疑問が残りました。確かにアニメ化前の時点で千歌にはμ'sに憧れていたというものがありましたし、サンシャインの物語がそこから始まるのはおかしいことではないと思います。ですが、物語の随所にμ'sを散りばめて12話という終盤までμ’sの話をし、μ'sからの脱却というものを描きたいがばかりに彼女達自身の独自の物語がなおざりになってしまった。そんな印象です。確かに現実のサンシャインはコンテンツとしてラブライブ!を、μ’sを意識せざるをえない状況にあるとは思います。ですが、そのコンテンツの事情をアニメサンシャインの物語にまで関わらせることはなかったと思います。

 3話でダイヤがこれだけの観客が集まったのは今までのスクールアイドル(メタ的に言えばμ'sの事だと思いますが)の努力と街の人達の善意と言い放つシーンがありました。このシーンは、確かにサンシャインというコンテンツの現状を表したものなのかもしれません。しかし、私は、知るきっかけはμ'sであったとしても、彼女達自身に芽生え始めた新しい独自性に惹かれた人達に対して、これは結構酷い事を言っているのではないかと感じました。もう少し、アニメの作り手の方々は彼女達自身の物語を描くことに自信を持つべきだったのではないか、もう少し彼女達自身の力を信じてあげても良かったのではないかと思います。

 

・まとめ

 言いたい事を簡潔にまとめると、サンシャインに私が持った不満点は以下の4つです。

・ライブの軽視

・部活物としての大会への姿勢の問題

・アイドルとして何が伝えたいのか・またアイドルをみてファンは何を感じるのか・ファンとアイドルの交流といった描写の不足

・過剰なμ's描写によりAqours独自の物語がなおざりになったと感じた事・μ's描写そのものへの不満

 そして、ラブライブ!に私が惚れ込んだ理由は上記の中のライブ・部活物・アイドル物の要素にとても心を動かされたからです。

 本来何かを褒める時に何かを貶すことは一番やってはいけないことだと思います。この文章はサンシャインの不満を述べるのが主な主旨ですが、どこが不満だったかという事を率直に書く過程でどうしてもラブライブ!の事を引き合いに出してしまいました。それは、不満を感じたサンシャインと自分が大好きなラブライブ!が、「まぁラブライブ!ってこんなもんだよね」という言われ方で同列に扱われる事に納得が行かなかったからでもあります。

 比較に際して、一期のみであるサンシャインと一期二期劇場版とあるラブライブ!を比べるのはどうなのか、といった意見もあるかもしれません。私としては、ラブライブ!の一期における部分だけの比較でも本稿の趣旨はブレないものであるという認識です。また、サンシャインのμ's評に関して劇場版までのμ'sの物語に言及さぜるを得なかったのでこのような内容になりました。

 アニメサンシャインには不満がありますが、サンシャインのキャラ設定はとても魅力的であると思いますし、楽曲も印象に残る曲が多いです。キャストの方の演技そのものも、とても良かったです。また、当然アニメサンシャインが心の底から楽しめた方がいるのも事実だと思います。

 とにかくこの文章はアニメサンシャインは自分には合わなかったというだけの話であり、それはラブライブ!のこういう部分に自分の感性が合っていたからだという事を述べただけのものです。

 サンシャインは自分がラブライブ!のどこが好きだったのかを確認するのにとても良いアニメだったと思いますし、ラブライブ!の事を考える機会を増やしてくれたという点では感謝すべきアニメだと思います。

 色々と長々と述べましたが、サンシャインに恨みがある訳ではありません。サンシャインに関してはコンテンツとしても、来るべき二期のアニメも、サンシャインらしく成功していって欲しいと思います。